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私の紆余曲折体験

ここまでが舌痛症の原因や症状、特徴、分類、検査法で、ここから治療の話に入ります。その前に、私の舌痛症治療の歴史についてお話させていただきますので、今しばらくお付き合いください。治療についてはその後、しっかりと説明します。

私が大阪大学歯学部を卒業したのは1987年の春。4月初旬に歯科医師国家試験があり、4月下旬から口腔外科外来で診療を始めることになりました。それまで大学5年生の秋から1年間にわたる大学病院での診療を経験し、基本的な歯科治療の技術を身に着けてはいましたが、実際には簡単な抜歯と幾つかの口腔外科手術を見学した程度の初心者でした。そのため、口腔外科入局後は手術や検査の実技について連日、猛特訓を受けました。口腔外科の外来は午前が診療、午後が手術です。毎日の手術で経験を積むうち、手術の腕前はみるみる上達していきました。自分では一人前の口腔外科医になってきたという実感がありましたが、それでも解決できない問題があると感じていました。

大阪大学歯学部口腔外科が診療の中心に据える病気は、口腔がんと唇顎口蓋裂です。口腔がんとは舌がんや歯肉がん、唾液腺がんなどで、唇顎口蓋裂とは口唇裂や口蓋裂などの先天的な形態異常です。これらの病気の診察や手術を最優先することを至上命題として、外来や病棟が動いています。他には顎の骨の骨折、受け口などの顎変形症、良性腫瘍、のう胞、唾石症、顎関節症、親知らずの抜歯、歯の脱臼、膿瘍などの手術を外来や病棟で行っています。

しかし、口腔外科は手術で治療する病気だけではありません。たとえば三叉神経痛や顔面神経麻痺、口内炎、白板症、扁平苔癬、カンジダ症、ドライマウスといった神経や粘膜の病気も口腔外科の担当です。当然これらの病気についても検査法や治療法を学び、主に投薬による治療を行います。その中に舌痛症が含まれていましたが、舌痛症だけは勝手が違う特別な病気でした。舌痛症の患者さんは「痛い」「ピリピリする」などと訴えますが、その部分を見ても触っても何も全く正常なのです。もちろん検査をしても異常は見つかりません。舌が痛むのだから舌痛症ということになるわけですが、治療法がないので途方に暮れたものです。新米樋口

現代医学の基本とは、それぞれの病気の症状を詳しく調べることから診療が始まります。症状の原因となる問題点を解明し、病気を診断し、それに対する治療を行うことにより現代医学は発展してきました。私が学生時代に繰り返し習ったのもこの診断と治療法です。しかし、舌痛症はこの原則に当てはまらないのです。症状を調べても原因は不明で、かろうじて「舌痛症」と病名を付けることはできても、改善させるための治療法が見当たりません。

患者さんが何か問題を訴えて受診されると、その部分を念入りに診察するのが基本姿勢ですから、何も異常が見当たらなければ「異常はありません」と説明し、そこで治療終了となります。異常がなければ患者さんも安心して一段落となるはずですが、舌痛症ではそうはいきません。幾ら異常が見当たらなくても実際に痛むのですから、患者さんとしては何とかして治して欲しいわけです。

 今では舌痛症の原因が慢性神経障害性疼痛であることは専門家の共通認識ですが、1981年当時は原因不明の病気でした。一部の口腔外科医は3環系抗うつ剤を試し始めていましたが、大多数は手をこまねいていました。私の口腔外科の先輩方も例外ではなく、舌痛症の患者さんに対して、力を尽くして治そうとする姿勢は見られませんでした。むしろ、できれば関わりたくないという消極的な態度が見え隠れしていたものです。

 そんな春のある日、私に舌痛症の患者さんが割り当てられました。和歌山県から家族に付き添われて来院した50代の女性です。それまでの経験から、舌痛症に関しては教授や先輩に頼ることができません。治療法がわからなくても自分で何とかするしかない。まずは患者さんの言葉をよく聞くことから始めました。患者さんの話は舌が痛いということに留まらず、今まで受けた治療の内容や日々不自由していることまで多岐にわたります。その内容は取り留めなく、散文的であちこちに飛びます。それでも何とかヒントを掴もうと、カルテに書き留めていきました。

 話を聞いていると、患者さんが舌がんを心配していることがひしひしと伝わってきます。舌をよく観察し、念入りに触診して調べても舌がんが否定されることを説明するとその時は安心されるのですが、次に来られた時にはまた同じように舌がんを心配されているのです。病気不安症の傾向があり、強迫観念にとらわれていると今では判断できますが、当時は知識がなく、何度説明しても気にして来院されること自体を不思議に思っていました。

当然のことながら、幾ら患者さんの話に耳を傾けても治療につながらなければ意味がありません。そこで舌痛症に関する論文や書物を読み漁り、治療法を探しました。確実な治療法こそありませんが、いろいろな治療法が試みられていました。ビタミン剤、うがい薬、軟膏、鎮痛薬、漢方薬、抗不安薬などが紹介されていたので、順番に使っていきます。どこかの論文で見たセファランチンという薬も使ってみました。しかし、どの薬を試してみてもはっきりとした効果は現れてくれません。

舌の痛みに対する改善は見られませんが、患者さんは和歌山から定期的に通い続けて来られます。今まであちこち地元の医療機関を訪ね歩いても解決できなかったので、他に行くところも残されておらず、とりあえず毎回、長時間に及ぶ診察を受けていることに意義を見出していたのかもしれません。新米の私は、この患者さんを通じて舌痛症を深く学ぶことができました。そして卒後1年目にも舌痛症の患者さんを診る機会が何度もあり、治療法として自律訓練法や3環系抗うつ薬を試すことができました。

こうして大学病院や総合病院の口腔外科で舌痛症の患者さんをときどき見てきたわけですが、治療成績ははかばかしくありませんでした。状況が改善したのは2005年に開業してからです。インターネットで舌痛症の情報を探していたところ、東京医科歯科大学の豊福明教授の解説記事に出会い、3環系抗うつ薬による舌痛症治療の可能性を知ったのです。その後、3環系抗うつ薬を本格的に使用するようになりました。同時に、大阪市で開催されているTAO東洋医学研究会主催の漢方の勉強会に参加するようになり、舌痛症に対して漢方薬も用い始めたのです。また、口臭治療の一環として取り入れていた認知行動療法を舌痛症に対しても行うようになりました。このような紆余曲折を経て、現在の舌痛症治療を確立したわけです。さあ、次からはいよいよ実際の症例を見ていきましょう。

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